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「釜本邦茂さんと浦和レッズ」

「釜本邦茂さんと浦和レッズ」

 

日本サッカー界に多大なるご貢献をされた釜本邦茂さんのご逝去に際し、心より哀悼の意を表するとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

稀代のストライカーである釜本さんの功績、そして釜本さんと浦和レッズとの関わりを、記録として未来へ継承するため、JSL時代より一貫してクラブの取材をしていただいているサッカージャーナリスト大住良之さんに寄稿いただきました。

「釜本邦茂さんと浦和レッズ」

日本サッカー界が生んだ不世出のストライカー釜本邦茂さんが、8月10日に逝去された。81歳だった。

浦和レッズの記念すべきJリーグ初戦、1993年5月16日の試合相手がガンバ大阪で、その監督が釜本さんであったことを覚えているファンは少なくないだろう。当時のレッズ監督は森孝慈さんである。奇しくも、早稲田大学の同期だった。
ふたりはともに大学時代に1964年の東京オリンピック代表となり、1967年、森さんは三菱重工に、そして釜本さんはヤンマーディーゼルへと、それぞれに日本サッカーリーグ(JSL)のチームに進み、その後のJSLでともに優勝候補として対戦することになる。もちろん、ヤンマーは現在のセレッソ大阪であり、三菱は浦和レッズの前身である。

1975年のJSLでは、第18節、優勝をかけて最終節で直接対決した。1試合平均入場者数が3,000人を割っていた当時、東京の国立競技場は3万5,000人という異例の大観衆で埋まった。
そのなか、三菱は落合弘さん(現浦和レッズハートフルクラブ キャプテン)の鮮やかなボレーシュートで先制したが、ヤンマーはすぐに追いつき、前半27分、釜本さんへのファウルでPKを得る。いつもならPKはけらない釜本さんだが、このときは自らボールをセットし、慎重に右隅にけり込んでヤンマーに逆転ゴールをもたらした。そしてヤンマーはすぐに3点目をたたみかけ、後半立ち上がりにも釜本さんがドリブルでシュートを決めて、3回目の優勝を飾ったのである。

釜本さんが出場したヤンマーとのJSLのホームゲームを、三菱は15試合開催したが、総入場者数は25万6,000人。1試合平均1万7,067人。「三菱×ヤンマー」は、まさにJSLの「黄金カード」だった。
ちなみに、釜本さんはJSLで三菱と計32試合対戦し、15ゴールを記録している。この間の対戦で釜本さんの記録に次ぐのは、三菱の落合さんの7ゴールである。
さらにいえば、この32戦の成績は、三菱の9勝15分け8敗、得点38、失点36と、ほぼ互角だった。三菱がどの時代にも数多くの日本代表選手をもっていた一方、ヤンマーで代表クラスの常連だったのは、釜本さんのほかには、国籍をブラジルから日本に変更した日系二世の吉村大志郎(ネルソン)さんだけだったことを思えば、「三菱×ヤンマー」は、突き詰めれば「三菱×釜本」であったことが理解できるだろう。
この32試合で、釜本さんは合計143本のシュートを放っている。今日のサッカーでは1試合に1本もシュートを打たない(あるいは打てない)ストライカーも珍しくないが、釜本さんは三菱という強豪相手の試合だけで1試合平均4.47本ものシュートを放ったのである。
1968年11月、メキシコ・オリンピックの直後に国立競技場に4万人を集めた三菱戦では、前半に清水泰男さんのシュートで先制した三菱に対し、後半、釜本さんは猛然と襲いかかり、後半15分に同点ゴールを叩き込んだ。この試合の90分間で釜本さんが1人で放ったシュートは、なんと11本だった。
当然、歴代の三菱監督は「釜本マーク」に腐心し、その時代の「守備のエース」を当てた。大西忠生さんから始まり、片山洋さん、大仁邦彌さん、落合弘さん、斉藤和夫さん…。こうした人々にとって、「釜本さんをマークした」ことは、選手時代の大きな勲章に違いない。

だが実は、釜本さんは森孝慈さんとともに「三菱」の選手になる可能性もあった。お父上が三菱重工の関係の仕事をしていたからだ。
しかし「関西のサッカーの火を消してはならない」と関係者が釜本さんを説得、まったくの新興チームで、JSLでも「お荷物」と言われるようなチームながら、会社を挙げてサッカーを強化したいという意欲をもっていたヤンマーへの加入を決める。そして1967年に釜本さんが加わるとヤンマーは急速に力をつけ、三菱と並ぶ4回のJSL優勝を記録する強豪となるのである。

釜本さんがヤンマーでデビューしてから25年後の1992年3月29日、JSLは「最終節」を迎えていた。この日の試合でアマチュアのJSLは終焉し、日本のトップリーグはプロの「Jリーグ」となる。その最終戦のひとつが、東京・西が丘サッカー場での「三菱×松下電器」だった。松下は、この後ガンバ大阪になるチームである。監督は釜本さんだった。試合は小柄なアルゼンチン人FWオスバルド・エスクデロが躍動し、三菱が2-0で勝った。
「どんな結果になっても、試合後には両チームでいっしょにファンにあいさつしましょう」―。試合前、三菱は松下にこう提案していた。その約束どおり、菊池光悦主審の終了の笛が鳴ると、両チームの22人はセンターサークル上に輪をつくって並び、スタンドのファンに手を振った。「菜種梅雨」の肌寒さのなか、西が丘を訪れたファンはわずか1,000人だった。しかしその1,000人から、「プロ時代」への期待を込めた温かい拍手が送られた。
たまたま私は、この小さな「セレモニー」をスタンド下の通路で見守る釜本さんのすぐ横にいた。そして釜本さんがこうつぶやくのを聞いた。
「そやなあ。プロはこうでなきゃあかんな」
残念ながら、釜本さんはJリーグの監督としては成功しなかった。しかし自分がゴールを挙げること、それによってチームを勝利に導くことだけに集中して現役生活を送ってきた「ゴールの鬼」のようだった釜本さんのなかに、「ファンと結びつかなければプロのサッカーなど意味がない」という確固たる哲学があることを感じて、私は強く打たれた。

1967年の三菱×ヤンマーから始まった釜本さんとレッズのかかわりは、常に熾烈(しれつ)を極めるライバル関係だった。しかし「何よりもファンを大切にする」という思いにおいて、釜本さんとレッズは、深く深くつながっていたように思う。

文・大住良之(サッカージャーナリスト)


1969年JSLベスト11(報知新聞年間優秀選手)表彰式
後列左から釜本邦茂選手、落合 弘選手(三菱)、横山謙三選手(三菱)、菊川凱夫選手(三菱)、小城得達選手
前列左から山口芳忠選手代理、鎌田光夫選手、宮本輝紀選手、森 孝慈選手(三菱)、片山 洋選手(三菱)、杉山隆一選手(三菱)


1973年JSL第16節11月18日 京都・西京極球技場、シュートを放つ釜本邦茂選手。写真左は大仁邦彌選手(三菱)。


1992年3月29日 JSL「最終節」試合終了後、三菱と松下電器がともに輪を作り、スタンドのファンにあいさつ。